2002年6月25日 午後8時配信
洛中之章 其之四
猿ヶ辻


 平安中期の摂関時代には、度重なる火災で平安宮大内裏はほとんど荒廃していたといわれており、皇居は貴族の屋敷を里内裏として、その時々に応じて移り変わっていたらしい。現在の京都御所は、南北朝時代、この地にあった土御門東洞院邸を里内裏としてから、拡張されていったものである。寛政2年(1790)、松平定信が造営した建物の炎上後、安政2年(1855)、それを再興したのが現在の建物である。
 この京都御所は、鬼門封じのために北東角の築地塀が歪に凹ませている。鬼門をわざとなくすという意味が込められているのだが、ここに烏帽子を被り御幣を担いで北東へ向かって飛翔するような猿の彫刻があることから、ここは「猿ヶ辻」と呼ばれている。「猿ヶ辻」は、別名「つくばいの辻」とも呼ばれ、夜中にここを歩くと、なぜか足がもつれ這いつくばってしまうという噂がある。文久3年(1863)、攘夷派の急先鋒・姉小路公知(あねがこうじきんとも)は、ここで暗殺され、這いつくばった。世に言う「猿ヶ辻の変」である。
 百鬼が跋扈した京都だが、江戸時代に入ってから、鬼の伝説はすべて歴史から姿を消しており、「猿ヶ辻」で起きた奇妙な現象や事件は鬼の仕業とはいわれていない。そう考えると、この江戸時代の鬼門封じは、実に不可解である。さらに不可解なのが、この辻に立てられている案内板である。「この猿は、御所の鬼門を守る日吉山王神社の使者ですが、夜になるとこの付近をうろつき、いたずらをしたため、金網を張って閉じ込められた」とある。日吉大社は確かに平安京の表鬼門を守るとされた山王権化だが、そこの猿が夜に琵琶湖の畔から比叡山を越えて、ここまでやって来るとは到底考えられない。
 「猿ヶ辻」の案内板には、一切、触れられていない話だが、「烏帽子をかぶり御幣をかついだこの猿」がいるのは、実はここだけではない。「猿ヶ辻」から御苑を出て、さらに鬼門の方へ10分も歩かない場所に幸神社(さいわいのかみのやしろ)がある。桓武天皇が奈良時代からの伝統に則って、都の鬼門隅に「さいのかみ」を祀った神社である。この神社の北東も角が削られており、そこには、何かを封じ込めたような神石が据えられている。そして、寝殿の鬼門から格子を覗くと、「猿ヶ辻」の猿と酷似の猿が、同じ方角を向いて飛び立とうとしている。同神社の祭神は猿田彦(サルタヒコ)である。猿田彦は天狗に似た鬼神で、裏鬼門(南西)の国から日本へ来た先導の神であるという。この都の「鬼門猿ライン」は、さらに北東の比叡山雲母口の赤山(せきざん)禅院にも見えるという。都の北東へ飛び立つ猿たちが、一体、何を意味するのか、すべては謎に包まれたままである。

ところ 猿ヶ辻(上京区・京都御苑内)
    幸神社(京都御苑北東約200m)
交通 市バス「同志社前」