2002年7月2日 午後3時配信
洛中之章 其之伍
五條大路 上巻


 平安京の五條大路は、祇園社(八坂/北)と稲荷社(伏見/南)の氏子圏の境界線であったという。宮城(きゅうじょう)内にありながら、ここは「サイ(賽)」または「サカイ(境)」(「洛東之章 其之弐」参照)であり、つまりは結界であった。五條大路は、荒ぶる神「五條天神」、塞翁「道祖神社」から、「賽の河原町」へ出て、多くの伝説が残る「五條橋」を渡り、冥界の入口「六道の辻」を越え、葬送の地「鳥辺野」から「三年坂」を上って、「サイハテ」の「清水寺」へ通ずるという話題に事欠かない魔界ラインである。室町時代以降、これより南の町は寂れたため、羅城門より北に位置しながら、都の南端という意味で「南京極(みなみきょうごく)」と呼ばれるが、現在の五条通に、五條大路の面影はない。五条通は戦中の強制疎開などにより拡張された国道であり、旧五條とは、現在の松原通を指すのである。
 五條といえば、真っ先に思い浮かぶのが、牛若丸こと源九郎義経と弁慶の伝説であり、国道1号線五条大橋西詰にも二人の姿を可愛らしくデフォルメした彫刻が設置されている。昼夜を問わず人や車が往来する五条大橋には、人の背丈の倍はあろうかというコンクリート製の巨大な欄干が並び、ここを自在に飛び回る牛若丸の姿を想像するのは、至難の業である。しかし、現在のこの橋は、二人が対決した場所ではなく、当時の五條橋があったのは、その北約80mの場所に架かる松原橋の位置である。この橋は、五条大橋の八車線国道と比べものにならないほど狭い。橋付近の松原通は、碁盤の目といわれる京の街にありながら、歪なカーブを描いていることで、鴨川に氾濫や不安定な流れがあったことを想像させる。今でも、夜は人通りも少なく、街灯もほとんどない。一方通行一車線のこの橋に、弁慶のような大男に仁王立ちされたら、普通の男は持ち物を強奪されるか、運が良くても、逃げるしかないだろう。
 現在は京都最大の繁華街となった「東京極(ひがしきょうごく)」こと寺町通以東だが、当時は宮城の外であった。鴨川沿いの河原は、処刑場があった場所であり、鬼と呼ばれた「まつろわぬもの」たちが棲んでいた場所である。五條橋は東と南の両京極であり、葬送の橋。正に百鬼夜行の「賽の河原」に架かる結界橋で、陰陽師らによって護られていたという。
 鴨川も現在とは大きくその形が違い、五條付近の川の中央には流れを二分する中州があり、そこには「法城寺」と呼ばれた寺があった。この寺の祖は、あの安倍晴明。氾濫する川を晴明が祈ったところ「水去りて土と成り」中州ができたことにちなみ、その寺は「法城寺」と名付けられた。晴明亡き後も、彼の塚はここに祀られたというが、その術も解けてしまったのか、江戸期に鴨川は再び氾濫を繰り返し「法城寺」は三条東詰に「心光寺」と名を変え移転。『都名所図会』は松原通の北に「晴明の社」があったことを記しているが、現在はその址を留めていない。 (「五條大路 下巻」へ続く)

ところ 五条大橋
交通 京阪本線「五条駅」
     または市バス「京阪五条」「河原町五条」すぐ
    松原橋へは上記から北へ徒歩約4分
     または市バス「川端松原」すぐ