2002年7月22日 午後9時配信
洛中之章 其之八
祇園御霊会


 コンコンチキチン、コンチキチン・・・。高く、そして低く響く祇園囃子。一概に祇園囃子といっても、「渡り囃子」「戻り囃子」「神楽」「唐子」など、さまざまな曲調のものがある。それらは夏の訪れを祝う情緒溢れる音などという、生やさしいものではない。実際にこの音色を傍で長時間聞いた者なら、感じることができるはずなのだが、祇園囃子の曲調、曲想は、それぞれが現世の序破急と、死に行く者の悲しみを表現しているといわれている。
 今や京都最大の観光イベントとなった「祇園祭」。正確には「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」という八坂神社の祭である。平安京で「御霊」といえば、「ごりょう」であり、「おんりょう」のこと。平安京の「怨霊」とは、死して桓武天皇を呪い続けた崇道天皇こと早良親王のことである。日本の多くの祭が、五穀豊穣を祈り、収穫を感謝する農耕民族の自然崇拝の上に成り立っているものであるのに対し、この祇園祭はその側面をほとんど持ち合わせていない。むしろ、それを否定するかのように行われる都市型の祭なのである。

 「御霊会」の起こりは、貞観5年(863)正月、咳逆病(がいぎゃくびょう)が京の町に流行ったことに端を発する。今では、ただの流行性感冒症という言葉で片付けられてしまう病気なのだが、当時は肺炎から死に至る病であり、この咳逆病の治療法と感染を防ぐ最も有効な方法というのは「禊祓(みそぎばらい)」の祈祷しか考えられなかった。京の町中に猛威を振るった貞観5年の咳逆病は、早良親王をはじめとする政争に敗れ無念の死を遂げた6人の「御霊」の祟りとされ、神泉苑(「洛中之章 其之弐」参照)で、この「御霊」を鎮め人形(ひとがた)を水に流す「御霊会」こと大祈祷会が行われた。以来、京で流行る疫病はこれら京を呪った「御霊」の仕業とされ、「御霊会」は神泉苑のほかにも、羅城門を挟んで並んでいた東寺、西寺の両寺院、紫野、衣笠、花園など、平安京周辺の各地で開かれるようになった。
 しかし、絶えることなく続く疫病、戦乱、飢餓は、貴族と平民を分け隔てることなく、時を越え、都人を苦しめ続けた。
 いつしか「御霊」は、八坂神社の魔神・牛頭(ごず)天王と重ね合わせて考えられるようになった。牛頭天王はバラモン教の夜叉の類の魔神であり、竜宮の姫の夫である。牛頭天王は、妻をめとる際の竜宮への旅の途中で、巨旦(こたん)という長者の家に宿を求めるが、巨旦は傲慢にこの申し出を断った。しかたなく、蘇民という者の家に宿を求めた。蘇民は貧乏人であったが、快く宿を与え、この魔神をもてなした。牛頭天王は、その後、竜宮の姫を妻に迎えたが、その帰り道も無礼な巨旦への怒りが収まらず、「我はこれより疫病(厄病)神となり、傲慢な巨旦一族を後々まで呪い殺す。しかし、親切にしてくれたお前の子孫は見逃し、守り続けてやろう」と蘇民に伝え、巨旦を殺してしまう。この伝説が、傲慢な貴族の横暴に苦しむ町衆の間に広まり、「御霊会」で祇園社の神を京の町に巡行させようとする動きが活発になった。
 そして行われたのが、天禄元年(970)の「祇園御霊会」であり、山鉾巡行に代表される現在の「祇園祭」に発展するのである。「祇園祭」では、町衆のこどもから選ばれる稚児が神の遣いとして、この祭の期間に官位を授かる。傲慢な貴族にはない無垢で真摯な心で、怒れる「御霊」を鎮めようとするためである。それは、平安と死者の鎮魂を願う都市の庶民の切ない祈りでもあり、貴族社会へのレジスタンスでもあるといえるだろう。
 「祇園祭」で配られる粽(ちまき)には、今も「蘇民将来之子孫也」と記された御札が貼られている。この護符を玄関に掲げることで「御霊」や「疫病神」の怒りから免れることができると信じられているのである。