京都市街中心部から洛西へ延びる路面電車「京福嵐山線」は、沿線距離7kmほどののんびりしたローカル路線だ。しかし、西京極の結界ラインである天神川を渡ったあたりから、謎めいた魔界沿線の様相を呈してくる。天神川以西の駅名はまるで漢字クイズで、「蚕ノ社(かいこのやしろ)駅」「太秦(うずまさ)
駅」「帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅」「有栖川(ありすがわ) 駅」「車折(くるまざき)駅」「鹿王院(ろくおういん) 駅」「嵯峨駅前(さがえきまえ)駅」、終点「嵐山(あらしやま)駅」と続く。ほとんどが、常用外の漢字である。「駅前駅」はご愛嬌だが、「嵯峨」という字にしても「嵯峨」以外にはまず使わない。「あらしやま」は読めても、この「京福嵐山線」を、京都以外の人が迷わず「けいふくらんざんせん」と読めたとしたら、その人は相当な鉄道マニアだ。これらの駅名(地名)は、洛中、そして今日の日本の主流になり得なかった独自の文化圏が、この洛西エリアに拡がっていたことを物語っている。
「太秦」という地名は、この一帯が平安京以前に新羅系渡来氏族・秦(はた)氏によって開かれたことに由来している。「ハタ」とは新羅語で「海」を意味するといい、「秦氏」とは、6世紀以降「海を渡って来た人々」の総称として使われていたようである。彼らが「秦(しん)の始皇帝の末裔」であるというのは、どうやら「苗字」の時代になって、秦氏が権威を高めるために用いた方便とするのが、近年では一般的な見解だ。
平安京の遥か以前、京都は山背国(=やませのくに/後に山城国)と呼ばれており、後の洛中、洛北、洛南となる地域は、既に賀茂氏などの高麗系渡来氏族に開かれていたという。後に渡来した新羅系は、それより西に活動圏を拡げるよりなかった。秦氏は、権力による抗争よりも、大陸からの最先端の文化や技術力を日本にもたらすことで発展を遂げた。高麗系より古くから日本に先住していた百済系渡来氏族・蘇我氏の末裔である藤原氏が平安京を支配するようになってからも、嵯峨天皇など「新しいもの好き」な都人たちは、洛西を愛して止まなかったのだが、秦氏が日本にもたらした数々の文化の中でも、特筆すべきは養蚕による絹の技術であろう。
|