2002年9月2日 午後4時配信
洛西之章 其之壱
蚕ノ社


 京都市街中心部から洛西へ延びる路面電車「京福嵐山線」は、沿線距離7kmほどののんびりしたローカル路線だ。しかし、西京極の結界ラインである天神川を渡ったあたりから、謎めいた魔界沿線の様相を呈してくる。天神川以西の駅名はまるで漢字クイズで、「蚕ノ社(かいこのやしろ)駅」「太秦(うずまさ) 駅」「帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅」「有栖川(ありすがわ) 駅」「車折(くるまざき)駅」「鹿王院(ろくおういん) 駅」「嵯峨駅前(さがえきまえ)駅」、終点「嵐山(あらしやま)駅」と続く。ほとんどが、常用外の漢字である。「駅前駅」はご愛嬌だが、「嵯峨」という字にしても「嵯峨」以外にはまず使わない。「あらしやま」は読めても、この「京福嵐山線」を、京都以外の人が迷わず「けいふくらんざんせん」と読めたとしたら、その人は相当な鉄道マニアだ。これらの駅名(地名)は、洛中、そして今日の日本の主流になり得なかった独自の文化圏が、この洛西エリアに拡がっていたことを物語っている。
 「太秦」という地名は、この一帯が平安京以前に新羅系渡来氏族・秦(はた)氏によって開かれたことに由来している。「ハタ」とは新羅語で「海」を意味するといい、「秦氏」とは、6世紀以降「海を渡って来た人々」の総称として使われていたようである。彼らが「秦(しん)の始皇帝の末裔」であるというのは、どうやら「苗字」の時代になって、秦氏が権威を高めるために用いた方便とするのが、近年では一般的な見解だ。
 平安京の遥か以前、京都は山背国(=やませのくに/後に山城国)と呼ばれており、後の洛中、洛北、洛南となる地域は、既に賀茂氏などの高麗系渡来氏族に開かれていたという。後に渡来した新羅系は、それより西に活動圏を拡げるよりなかった。秦氏は、権力による抗争よりも、大陸からの最先端の文化や技術力を日本にもたらすことで発展を遂げた。高麗系より古くから日本に先住していた百済系渡来氏族・蘇我氏の末裔である藤原氏が平安京を支配するようになってからも、嵯峨天皇など「新しいもの好き」な都人たちは、洛西を愛して止まなかったのだが、秦氏が日本にもたらした数々の文化の中でも、特筆すべきは養蚕による絹の技術であろう。

 木島神社(このしまじんじゃ)は一般に「蚕ノ社」と呼ばれ、文字通り「蚕の神」を祀った社があるのだが、正確には木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)という。「続日本記」では、大宝元年(701)、既に木島神(コノシマノカミ)の名が見えるので、それ以前に「この木の島」に渡って来た人々が祀った神と考えることができよう。ただ、この神社は、あまりに謎が多い。そもそも、御祭神について「詳しくは不明」であるという。「この島で木の葉」が育つことで蚕が育つことを祈念したという上代の人々の気持ちは、なんら不思議ではないのだが、それを「不明」としてしまうところに、外来の神を歴史から隠そうとする思惑や圧力があったのではという疑惑が生ずる。何よりもこの神社の最大の謎は「三本柱鳥居」である。鳥居の原型は古代インドやアーリア文化にも見られるのだが、基本的に「二本柱」である。この「三柱(みはしら)鳥居」は、その由来も、起源も、一切が不明で、すべてが謎に包まれている。
 絹は遥か遠い大陸の西端から長いシルクロードを辿って極東の島へ伝えられた故、ここに祀られているのは、バラモン神でも、ブッダでも、風水神でもない大陸の西の人々が「神」としたものだという説がある。さらに「秦(はた)」は、古くは「ヰヤハダ」と発音したという説がある。そして、この神社の境内には「元糺(もとただす)の池」という湧き水の行場があるのだが、「ヰヤハダ」に近い音を持つ「ユダヤ」ことイスラエルの寺院には必ず同じような禊ぎ池があるというのだ。「三柱鳥居」が描く三角形は、1300年前、既に日本に伝わっていたというキリスト教の一派・景教の遺跡であるとも、ヒンドゥー教の「シュリヤントラ」であるとも、これを二つ組み合わせた時、その図形は「六芒星」こと「ダビデの星」になるとも、様々な説がある。それらを突拍子もない説だと笑う人もいるだろう。しかし、祇園祭に、古くからイスラム寺院のモスクを描いた鉾飾りを掛ける鉾が巡行している京都である。シルクロードの終着点に、ユダヤの影響があったとしても、それを完全に否定することはできるだろうか。


ところ 蚕ノ社(右京区太秦)
交通 京福嵐山線「蚕ノ社駅」徒歩約4分