「京福嵐山線」の旅を更に西へと進めよう。「蚕ノ社」「太秦」の次は「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」「有栖川(ありすがわ)」と続く。「帷子ノ辻駅」では「辻」の名の通り、京福電車の北野線と嵐山線が合流し、ここから嵐山へ向かうひとつ路線となる。レールが敷かれる遥か以前からこの付近は、北の広沢の池、北東の愛宕常盤、北西の上嵯峨、西嵯峨へ向かう街道の分岐点だった。それらの地名でおわかりの方も多いだろうが、つまりは葬送の地「化野(あだしの)」への入口であり、東の「六道の辻」同様、ここはあの世とこの世の分岐点なのである。「魔」は「魔」でも「魔界」ならぬ映画『大魔神』が撮影された大映の撮影所にちなんで名付けられた商店街「大映通り」が三条通に交錯し、銀行やスーパーや食堂が建ち並ぶ現在の「帷子ノ辻交差点」は、どこの街にでもあるような駅前交差点である。「帷子ノ辻」といういわくありげな地名以外に、これといった「遺跡」は残していない。
地名となった「帷子」とは、嵯峨の地をこよなく愛した嵯峨天皇が寵愛した檀林皇后の死に装束「経帷子」のことである。橘嘉智子(たちばなかちこ)こと檀林皇后は、帝の恋慕を経つために亡骸は嵯峨野に捨てるようにとの遺言を残したという。当時は皇族であれ、亡骸を埋葬する習慣がなかった。野に晒(さら)されることによって、風雨や動物たちが、その遺体を葬り去ったのだ。檀林皇后には、その時の衣装にまつわる伝説が多い。嵯峨野「日裳宮(ひものみや)」「裏柳の辻」は、皇后の着ていた緋袴(ひのはかま)と上衣(うわぎぬ)をそれぞれ祀っている。「長明神(たけのみょうじん)」は皇后の遺髪が舞い落ちた場所であるという。そしてこの「帷子ノ辻」は、文字通り皇后の経帷子が風に吹かれて舞っていた場所とされている。これらの伝説は、この土地と皇后を愛し続けた嵯峨天皇が、嵯峨野にひとつでも多く檀林皇后の面影を残そうとして作ったものかもしれない。
「帷子ノ辻」に檀林皇后にまつわる寺院や社は残らなかったが、ここから西の「有栖川駅」方面へ向かうと「斎宮神社」がある。「斎宮」とは未婚の皇女または女帝を指す言葉であり、檀林皇后も嵯峨天皇に嫁ぐ前に訪れた場所かもしれない。「斎宮神社」は「斎宮」が「有栖川」の流れから引いた水によって禊ぎを行う「斎場」であり、「斎」は、やはりあの「サイ」である。(「洛東之章
其之弐」参照)
京福「有栖川駅」は、かつて「嵯峨野駅」といっていたが、観光客がここから「嵯峨野巡り」ができると勘違いして下車してしまうため改名されたのが現在の駅名だ。「有栖」という言葉は、必ず、川名や川のある場所に使われる。古代の日本語によると「有栖」と「荒瀬」は同じ語源で、「アラ=美しい川、清らかな水」の「ス(棲、住、巣、栖)む」場所という意味らしい。シルクロード文化説や日本文化がユダヤ思想によって確立されたという日ユ同一思想を唱える人の中には「アリス/有栖」や「クリス/栗栖」という地名には「アリストテレス」や「キリスト」の影響があるともいうが、はたして、嵯峨文明はそこまで国際的だったのだろうか。
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