右京区には西院(さい/さいいん)という地名が今も残っている。かつて、この一帯には無数の川が流れていて、そこに死者の亡骸を流したことから「西院河原」と呼ばれていたのだが、これらの水流は、一部は枯れ果て、一部は地下に潜ってしまい、今は「河原」の痕跡をほとんど留めていない。千灯供養で有名な化野念仏寺の門前にある「あだし野」の石碑には小さく「西院乃河原」とも刻まれているので、かなり古い時代、既に「西院」の「河原」は姿を消し、「化野」は「西院河原」と同一視されていたと考えられる。
二尊院から念仏寺にかけての「化野」地中には、まだ無数の石仏や石の仏塔が眠っている。埋葬や墓石を置く習慣を広めたのも小野篁だという説があるが、実際にはそれ以降も野晒(のざらし)のまま葬送することのほうが一般的な時代が続いていた。しかし、空海がこの地を訪れた時、既にこれらの石仏が無縁仏となって並んでいたとも伝わっており、それが事実だとすれば、平安京や篁以前から、この一帯は秦氏の葬場であったことになる。空海が整地し8,000体に及ぶ石仏を並べたのが現在の化野念仏寺だというが、風化した石仏からわずかに読み取れる印相は、まぎれもなく「空海が日本に伝えた」ことになっている密教の仏像が結ぶ印である。それは、この地にかなり以前からこのような大陸文化が独自のスタイルで発達していた可能性を示唆することとなる。これらの石仏がいつ頃からこの地方に並んでいたのか、実際には謎のままなのである。
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