2002年9月13日 午後12時配信
洛西之章 其之参
化野


 古来、日本には「ハレ(晴)」と「ケ(褻)」という区分がある。「晴れ」とは、本来、「はなやかなこと」や「特別に良いこと」や「正式、公式なこと」を意味する言葉である。農耕や漁業を糧としていた日本人にとって、収穫の多い日は「ハレの日」であり、それらを神に感謝する祭が行われる日も天候に関わらず「ハレの日」であった。「晴れ着」「晴れの舞台」「天晴(あっぱ)れ」などという言葉は、そのような特別にめでたい時に使う言葉である。これに対して、「ハレ」以外の特別ではない一般的な日やものごとは「ケ」と称された。「ケ」自体には、悪い意味もなければ、良い意味もない。しかし、後になって特別に悪いと感じるものに対しても「ケ」という言葉を用いるようになった。「怪」「鬼」に「ケ」という読み方があるし、「鬼鬼」と書いて「もののけ」と読むこともできる。天気も「ケ」が死んでしまうぐらいに悪くなると「死褻(シケ)」である。「時化」という文字をあてたのは、なんでもない「ケ」の状態が「突然に化ける時のいたずら」であると人々が考えたからであろう。「時化」はやり過ごせば、いつかは治まる。しかし、命あるものは、時が経てば、いつか力尽きて「死」を迎える。しかし、その後も命のあった物体の形は残る。その形は決してかつての美しさを取り戻すことなく「枯れ」朽ちる。「ケ」が「枯れ」たものを、古代の人々は「ケガレ(穢れ/汚れ)」と呼んで最も恐れ、忌み嫌った。
 あまねく神仏を勧請し、風水によって神聖に造営された平安京宮城(きゅうじょう)内に「ケガレ」を持ち込むことは決して許されなかった。しかし、平安京が築かれると同時に、京には爆発的に人口が増えた。加えるに、天災、人災は後を絶たず、疫病や飢餓は、突然、都を襲ってくる。遷都の数年後、洛中にはおびただしい数の「ケガレ」こと死体が氾濫していたという。この処置にあたったのが、大内裏と冥府を行き来したという伝説を残す小野篁(おののたかむら=「洛東之章 其之壱」参照)である。篁は平安京周辺5箇所に葬場を制定した。すなわち、洛北の「蓮台野」、洛東の「鳥辺野」「華頂山」、洛西の「西院河原(さいのかわら)」と「化野(あだしの)」である。「蓮台」「華頂」「西院」などには、なんとなくありがたい響きがある。それに対して「鳥辺野」「化野」は、いかにも「ケガレ」た不気味な地名である。これらは、そこに葬送される者たちの身分を示していると考えられているが、実際に洛北には官人や貴族の墓陵が多く、「鳥辺野」には鬼を葬ったという伝説が残っている。また、洛南に葬場を定めなったのは、風水の考え方として南は玄関の方位であり、そこに「ケガレ」を置くことをよしとしなかったからであろう。

 右京区には西院(さい/さいいん)という地名が今も残っている。かつて、この一帯には無数の川が流れていて、そこに死者の亡骸を流したことから「西院河原」と呼ばれていたのだが、これらの水流は、一部は枯れ果て、一部は地下に潜ってしまい、今は「河原」の痕跡をほとんど留めていない。千灯供養で有名な化野念仏寺の門前にある「あだし野」の石碑には小さく「西院乃河原」とも刻まれているので、かなり古い時代、既に「西院」の「河原」は姿を消し、「化野」は「西院河原」と同一視されていたと考えられる。
 二尊院から念仏寺にかけての「化野」地中には、まだ無数の石仏や石の仏塔が眠っている。埋葬や墓石を置く習慣を広めたのも小野篁だという説があるが、実際にはそれ以降も野晒(のざらし)のまま葬送することのほうが一般的な時代が続いていた。しかし、空海がこの地を訪れた時、既にこれらの石仏が無縁仏となって並んでいたとも伝わっており、それが事実だとすれば、平安京や篁以前から、この一帯は秦氏の葬場であったことになる。空海が整地し8,000体に及ぶ石仏を並べたのが現在の化野念仏寺だというが、風化した石仏からわずかに読み取れる印相は、まぎれもなく「空海が日本に伝えた」ことになっている密教の仏像が結ぶ印である。それは、この地にかなり以前からこのような大陸文化が独自のスタイルで発達していた可能性を示唆することとなる。これらの石仏がいつ頃からこの地方に並んでいたのか、実際には謎のままなのである。


ところ 化野(右京区嵯峨鳥居本化野町)
交通 京都バス「鳥居本」